早稲田大学狂言研究会の日記

早稲田大学狂言研究会 公式ブログ

  • 投稿者:C.X.さん

平成18年6月25日(日)
喜多流職分会 六月自主公演能
能「頼政」 シテ、友枝昭世

 蝉の会が終わり、久しぶりに能楽堂に足を運んだ。はじめから、友枝昭世師とは、贅沢だ。友枝師の能は過去に、「羽衣」「大江山」を見たことがあった。「羽衣」が特に良かったと記憶している。友枝師は、名実ともに当代能役者の最高峰であるから、どんな「頼政」が見られるか楽しみであった。
 私は、喜多流の方から優待券を戴いていたが、指定席ではないために、3時間も早く来て、並んでいた。さすがに誰もいないだろうと思うも、38名もすでに並んでいた。準備のいい人もいるもので、小さな腰掛や、退屈しないようにと、漫画や小説を持ってきている方が多かった。かくいう私も、音楽を聴きつつ、立ちっぱなしで待った。時々、自分のやってることがむなしくなるときもあったが、美しいものをみるためと思えば、すぐに時間は過ぎていった。私の性分は、見たいと思ったら見ないと気がすまないし、とりあえず自分で体験することが大事だと思っている。美しいものをみることは、自分の審美眼を養う上で最も基本的なことであると思う。
 能の話に戻ろう。シテは友枝昭世、ワキ、宝生閑、大鼓、柿原崇志、小鼓、北村 治、笛、藤田大五郎という最高のメンバーであった。藤田大五郎師の笛は、澄み渡るようないい音であった。私は柿原師の大鼓が好きだ。気合が入っていて、迫力が見所にまで伝わってくる。
 前シテは、老人の姿で現われる。今回の舞台の面はすこぶるいいものであると感じた。前シテの尉の面は、眼の辺りがとてもリアルであった。眼に光が当たるので、そのこけた頬が一層暗く、陰鬱な感じをしていた。頬が暗いぶん、見所の目線は自然に面の眼に集中する。前場は、ワキとの問答だけであるのに、そのたたずまいに、後シテの頼政の影を感じられた。それは、詞章がただの老人に、かなり風流で残酷な話をさせるからだろうか。後シテの影を最も濃くみたのは、平等院へ案内し、扇の芝の由来をワキに語るあたりだろう。自刃し果てた場所へ、僧をわざわざ連れてくる不思議な因縁。自らの命を絶ったその場所の説明をする悲哀、悲痛。それらすべてが、不思議な輪廻の中に組みこまれ、巡ってゆく。修羅能の前シテは、後シテの影を打ちしだしてこそ前場の真意がわかるのだと思う。修羅道に落ち、終わることのない、戦いと死と再生の繰り返しを感じさせなければ、僧の前に姿を現し、供養を願うことは無いように思う。
 前シテが、頼政であるとほのめかしつつ、中入りをする。アイが居語りをして、後シテの登場となる。幕が上がるとそこには、金色に輝く頼政の姿があった。「源三位」といわれた憐れな老貴族がそこにいた。後シテの面は、頼政の専用面「頼政」である。それに、頼政頭巾をかぶった特殊な出で立ちである。私はこの面の口が好きだ。口があいているようであいておらず、老いていないようで老いている、と感じる不思議な面だからだ。友枝師のカタは良くきまっており、流れるようにカタが続く。床机に座り、あまり動けない中で、宇治川に対峙する源平両軍の様子をあらわし、詞章は頼政の見た情景と、自身の言葉が織り交ざっており、まるで、その場にいるような臨場感まで感じさせてくれる。平家の軍勢が宇治川をわたり、もはや最後だと思った頼政は、平等院の芝の上に扇を敷き、自害する。友枝師は、扇を敷くところを、置くようではなく、少し放る感じで、扇を敷いた。もはやこれまでと思い、早急に命を絶とうとした現われだろうか。いや、扇を敷くカタに頼政の人生を見せようとしたのだろうか。能の頼政では、肝心の自刃の場面は描かれない。「埋もれ木の・・・」の辞世の句を詠むだけだ。修羅で最も重要な死を省略するのは、不思議な手法だ。能には、死という概念はあまり必要ないのかもしれない。死というものを示さずとも、見所が心の中で、頭の中で埋めればいいことだ。
 私は、宇治平等院に訪れたことがあるし、扇の芝もこの眼で見、頼政の供養塔も辞世の歌碑も見たことがあった。源平の時代と1000年あまりの時が過ぎ去っているが、宇治平等院と能「頼政」は確かに、一致した。次回宇治平等院に訪れるときは、この「頼政」を思い出しながら、平等院を感じられることだろう。
 最後の場面で、もう一度扇を正先に敷きそのまま頼政は、鏡の間へと消えていった。能舞台にぽつんと残った扇は、私の心の中で芝になった。