早稲田大学狂言研究会の日記

早稲田大学狂言研究会 公式ブログ

  • 投稿者:筋太郎さん

宝生会 春の別會能 第一日 
平成18年3月26日(日)
能「道成寺 シテ、渡邊茂人

 能「道成寺」は、私の最も好きな能の一つだ。能楽に親しんでいる人にとって「道成寺」とは、最高の楽しみであるからだ。
 私は、今回で3度目であった。前2回はいづれ観世流である。今回はじめての、宝生流の「道成寺」である。宝生流では、基本的に「道成寺」は人生で一度のみ舞うことのできる曲なのである。これこそまさに、一期一会であり、一世一代である。一人の能楽師にとって一世一代の「道成寺」を見ることのできる一期一会とは、なんと特別なものか。私はシテであった渡邊茂人師を、一生忘れることはできないだろう。加えて、特別な能楽師のうちの一人になるだろう。
 まず、鐘をつりあげるところから述べていこう。「道成寺」では、能舞台の上に、鐘をつりあげる。この鐘をつる役は、狂言方である。鐘をつりあげるときの、あの見所の張り詰めた空気は何度味わっても心地いいものだ。見所の眼が、梁についた滑車に集中する。さあ、縄を通すぞ、というところで、一気に緊張が高まり、無事滑車に縄が通ると、どこからともなくため息が聞こえる。張り詰めた空気がとけると、いよいよだな、と「道成寺」の心の準備に取り掛かり、それから、舞台上から何もかもが消えるまで、眼と心は能舞台から離れることができない。鐘をつるという行為は、能舞台に見所を縛り付ける最良の手段であると思う。「道成寺」という、ある種の夢の世界への架け橋なのである。
 前シテの白拍子は、物着→乱拍子→急之舞→鐘入りと多彩な見所がある。「道成寺」では、ことさらに乱拍子のことばかり注目されるので、私はあまり触れないようにしたい。しかし、やはり、乱拍子抜きには、「道成寺」は「道成寺」にならないのである。乱拍子は、間がとても長い。あの間が、音楽として成立しているのだから驚きである。静まり返った能楽堂に、小鼓とシテの息づかいが響くようだ。私はシテの運足のみに集中していたが、あげたつま先を小鼓の掛け声と拍子に合わせて、左右に微妙に動かしていることに、気がついた。これまでの「道成寺」では、気づくことがなかったところだ。その足の動きによって、小鼓と乱拍子を演じているのであろう。(私はまだまだ勉強が足りないので、くわしくはわからない。私なりにえた答えである。)
 乱拍子のなかで、シテが途切れ途切れに謡う。その謡によって、徐々に女の情念が高まりつつあることを知り、あるとき不意にその情念が堰を切ってあふれ出す。囃子が、先ほどの静寂が嘘であったかのように、急テンポで、急之舞を奏でる。それにあわせて、シテが舞う。宝生流の急之舞は、そんなに激しい印象は受けないが、囃子の音を内に溜め込んでから、外に発散させるような舞であった。だから、堅実さや優美さが感じられる。囃子の激しさはシテの心の姿で、シテの体は心の激しさの中にあっても片隅に残された一輪の花のようである。そして、いよいよ鐘入りのクライマックス、白拍子が烏帽子の紐に手をかけたと思うと、扇に勢いよく「パーン」と飛ばされ、舞台下の白州に落ち、その烏帽子に気を取られている隙に、白拍子は鐘の真下に走りこみ、一気に鐘の中へと吸い込まれていった。
 今回の「道成寺」で一番良かったと思うところは、烏帽子を飛ばすところである。知識がどんなにあっても、まったくなくても、あの一瞬には、誰もが息を呑み、鳥肌が立ったであろう。心の線か何かを、切ったような感触であった。二週間経った今でも、決して感動が薄れていない。
 鐘入りが終わると、能舞台全体が安堵の表情をあらわす。「道成寺」の前シテのみを取り上げることがほとんどだが、鐘入りも「道成寺」という能の一つの通過点であり、曲の序破急の、急がまだ残っている。能は全てを見てこそ、一つの完成された芸術になりうるし、500年を通して洗練された結果なのである。
 鐘があがって、後シテが現われる。面は「真蛇」で普通の「般若」よりも、蛇であることを強調している。「真蛇」は口が広いところが特徴的で、威嚇する蛇に似ている。そういえば、宝生流の「道成寺」のキマリ扇にも龍が描かれている。『蛇(龍)』を装束で強調しているところは、宝生流道成寺」の特徴であるといえよう。私はどちらかといえば、後シテの方が好きだ。自分でもよくわからないが、なぜか心惹かれる。鐘が上がって正体を現すところなどは、ぞくぞくっとくる。渡邊師の後シテも、とてもよかった。僧たちに調伏されるときの、安座は気持ちよく、すとん、と型がちゃんときまっていた。最後に、橋掛かりから、舞台上に、顔をキルところなどは、背水の陣にもかかわらず、獲物を追い詰める蛇を思わせた。そして、幕入りは勢いよく走りこんで、日高川へ飛び込むようであった。
 ああ、僧が喜びのユウケンをやっている・・・。もう、夢うつつの状態であった。地謡も囃子もいなくなった能舞台のなんと愛おしいことか!いい能を見た後はいつもそうだ。能舞台は何も変わっていないのに、たった5分前まで「道成寺」をやっていた。本当に走馬灯のようであるし、また、夢の中の世界に迷い込んでいたような感覚におちいる。私は思うのだが、能とは、この読後感にも似た達成感と喪失感を味わうために発展したのではないだろうか。祭りの後といってもいい。深夜の都市でもいい、有無のどちらがかけても成立し得ないものだと、私は感じる。
 「道成寺」をみるチャンスがあれば、絶対にみるべきである。どの流派でも、どの演者でもいい。また、「道成寺」については、書くことがあるかもしれない。今回はここで、筆をおこう。