早稲田大学狂言研究会の日記

早稲田大学狂言研究会 公式ブログ

  • 投稿者:C.X.さん

国立能楽堂定例公演三月一日(水)

  狂言「歌争」(和泉流)シテ、野村万之介 アド、野村万作
 久しぶりに、万之介師の狂言を国立で見た。シテ、アドの配役を見れば一目瞭然だが、期待に反することなく、文句なしでおもしろかった。舞台の中に、引き込まれてしまった。自分の顔に気持ちのいい笑いが自然と出てくるのがわかった。所作は少ないので、言葉のみで世界を作っていた。流石といえる舞台で、清々しかった。いい舞台は、言葉であらわすのは難しい。リアルタイムで、見るのが一番である。しかし、彫刻や絵画の鑑賞と違うのは、狂言の舞台というのは一度きりのもので、同じ配役でやったとしても、二度と同じものには出会うことはできない。いい舞台に出会いたいがために、私は能楽堂に足しげく通うのである。

  能「忠度」(宝生流)シテ、佐野 萌(さの はじめ)

 『風姿花伝』年来稽古條々の五十有餘には、「誠に得たらん能者ならば、物數はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。」と書かれてある。佐野師の忠度はまさにこの一文のようであった。
花が残っているというのが、重要であろう。後シテの忠度からは、落ち着いた雰囲気を受けた。面をかけるから、見た目には、年齢というのはわからない。この点は、すごく新鮮であった。装束は同じでも、舞い手が違えば、印象は変わる。考えてみれば当然のことだ。終了後佐野師の年齢を知った私には、後シテまで高齢な方だとはわからなかった。舞いうんぬんより、存在感が強烈であった。これは、子方のような存在感に似ているのかもしれない。何もないところから、何かを得てまた何もなくなるのだろう。少し語弊はあるが、感覚的に私が文章にしたらこのような表現になった。能を見ていくと、このような演者の年齢の違いによっても、微妙な変化を楽しませてくれる。次は、子方のシテというものも見てみたいと感じた。