早稲田大学狂言研究会の日記

早稲田大学狂言研究会 公式ブログ

  • 投稿者:C.X.さん

国立能楽堂普及公演
06年2月11日<土>@国立能楽堂

能「恋重荷」(観世流)シテ、観世喜之

 私は、最近官能にはまっている。・・・ごめんなさい、観能でした。一字違いでえらいことや!まあ、音は同じやけど。今回は、国立能楽堂に足を運び運び、すり足すりすりでいった。国立能楽堂の敷地内で、猫のミーちゃん(仮名)がかなりかわいかった(^0^)ごろにゃーん(笑)猫には、恋多き季節ですからね。まあ、勝ち組もいれば、負け組もいるということですね。資本主義の基本ですね。私たち人間には、猫の老若男女は判別がつきませんけどね。猫は老いも若きも恋をするのでしょうか?わかんねえなあ。人間は普通、恋は若い人がするもんだと思われてますね。老人が恋をすることは、結構変な感じだと受け取られるものです。70歳あまりのご老人が、18歳くらいの女子大生に恋をするのは、まあ、変だなあと、感じる人のほうが多いと思います。そんな老人の恋をテーマにした能が、今回見た「恋重荷」である。
 
 「恋重荷」・・・観世喜之師のシテを初めて見させていただいた。もう、70歳をむかえられて、山科荘司(やましなのしょうじ)と同じくらいのお年頃で、老いの花が十分に感じられた。特に、後場での立ち回りは、見事であったと思う。体の所作が少ない中で、足拍子にだけは、力がこもっており、山科荘司のうらみの深さを感じた。とても静かな雰囲気のなかに、負の力を込めて踏みしめる拍子には、うしろめたいこと(持ち上げられない恋重荷を老人に持ち上げさせて辱めたこと)をしてしまったワキやツレ、アイの心に、後悔と自責の念を起こさせる。さらに、私の心を捉えた場面がある。後シテは白頭で、目線はやや下げ気味であった。しかし、恋重荷を見るときに、白頭の先をつかみ、目線をやや上げたとき、面(おもて)の重荷悪尉の両眼に施されている金泥が、きらりと怪しげに光った。偶然ではあると思われるが、この眼の輝きに山科荘司の心の底にある涙を見たような気がした。怨霊になっても愛するということを忘れられずに葛藤する一人の老人がそこにはいた。その老人は思い巡らせると、世阿弥に重なっていくようでもある。
 今回の舞台はかなり深いものを感じ、得るものも多かったと思う。たくさん舞台を見たとしても、いい舞台というものにはなかなかめぐり合えない。他人の意見なども気になり、舞台の良し悪しは判別しづらい。しかし、自分の感性で見て、舞台から何かを感じればそれでいいと思う。私は美術史を専攻しているため、実物(ホンモノ)に触れることをとても大切にしている。自分で足を動かし、頭を動かしてみたものは、自分の血となり肉となるのである。時間に余裕があり、体力もある、学生のときこそ、自分の好きなことをしたい。老いて、後悔はしたくない。