早稲田大学狂言研究会の日記

早稲田大学狂言研究会 公式ブログ

  • 投稿者:C.X.さん

3月10日(金)銕仙會定例公演
於、宝生能楽堂
 

能「桜川」シテ、観世清和

 
 狂女物の能は殆どみたことがなかった。狂女物は五番立てでは、四番目だ。序破急の破の急というところだ。とても所作の多い能で、演劇的に舞台進行が行われ、比較的わかりやすい。前場が短いところが特異であると感じた。夢幻能よりも現在能にとても近い。
 前場の人商人はワキ方の宝生欣哉師がなされていた。人商人は僧侶や神官の役を担うワキ方がやると、少し違和感がないこともない。「班女」の女主人のように狂言方がやってもいいように感じた。人間くさい役は狂言方がやった方が、ぐっといやらしく、俗な感じがする。この言い方には少し語弊があるかもしれないが、要するに、品格の差というか、求めるものの違いではないだろうか。(簡潔に言えば、紳士的とか、お兄系だとか、キレイめとか、アキバ系とか)ワキ方の品格は、能の中にあり、狂言方のそれは、狂言の中にある。狂言方が能の中に登場すると、その品格の違いから、強烈なインパクトと世界観の広がりをみせる、という効果がある。狂言方を登場させることで、能の中に入りやすくなるし、シテ、ワキ、地謡のメロディ、つまり、「能の品格」が映えるのである。能の中での狂言方の重要な役割は舞台と見所を繋ぐ役だと私は考える。「桜川」の人商人も「班女」の女主人も性格は同じであるのに、ワキ方狂言方と、演じる分担が違うのは興味が尽きないところだ。どこで境界線を引いているのだろうか。(「班女」のアイについては、野村万作師の「太郎冠者を生きる」のなかに書かれているので、一読してみては?)
 観世清和師のシテを初めてみた。仕舞や地謡ではみたことがあったが、やはりこの人はうまい。声がとても通る。力があり柔らかさもある。はっきりとした力強い声である。「桜川」の中盤ではワキの森常好師と、アシライが多かったが、流れるような言葉の押収であった。これが、受け取りやすい謡なんだなと感動した。
 さらに、網の段とよばれるイロエの部分では、地謡とシテの絶妙のコンビネーションが見られた。謡が水の湧き立つように、どこからともなく現われては消え、現われては消えていく。「滅びの美」だな、と感じた。聞こえてくる声は、口から出た段階では美を保っているが、見所にとどいて、美の片鱗を感じたか感じないかの微かなところで、もう滅んでいるのである。
 演能中は、さほどに「滅びの美」を感じることはなかったが、全ての謡が終わったところで、沈黙の中に、さきほどまでの美の存在を認めはじめた。たとえれば、満開のさくらが春風に吹かれ、あっという間に散っていくようなものだ。いくら掬っても、掬ってもそこには、花びらという断片のみが残り、真実の美(=桜子)は、容易には探し出すことができないのだ。真実の美は、散ってしまった後で、その大きさに気がつくからこそ、真実の美たらしめているのだ。この「桜川」に言い換えれば、桜子という我が子を失ったあとで、桜子の存在のかけがえのなさに気づき、物狂いになり桜子を探す姿を美となしているのである。
 
 狂言「鬼瓦」シテ、三宅右近 アド、三宅右矩

 三宅家の狂言をはじめてみた。三宅右近師の大名はとてもよかった。気位が高そうで、堂々としている。同じ和泉流だといっても、万作家とは、やはりどこか違った雰囲気だ。今月は、三宅家の狂言を見る機会が多そうなので、また、感想を書いていこう。ところで、今日の装束は、かなり派手であった。大名の素襖は花火柄で、太郎冠者の肩衣は鯉尽くし、扇も鯉であった。なかなかの組み合わせである。装束の好みも、家の特徴が現われるようで、おもしろい。